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天神信仰の誕生
菅原道眞公【すがわらのみちざねこう】 (845~903)は、『三代実録』や『類聚国史』の編さんに関わり、『菅家文草』を著した当代一流の学者・詩人でした。しかし、もともと、政治とは関係のない世界にいた人です。学問を職業とする家に生まれ、祖父や父のように、自分も学者としての一生を送っていこうと考えていました。
ところが、大変に優れた学者だった道眞公は、やがて政治の世界に引きこまれていきます。政治家になることは、道眞公の望む道ではありませんでしたが、藤原氏の勢力をおさえようとする天皇に厚く用いられ、いつしか右大臣の位にまで出世していきました。
道眞公には、政治に対する野心などなく、自分に与えられた仕事を忠実にこなしていただけです。しかし、政権を一人じめしようとする藤原氏によって、朝廷から追い出されてしまいました。こうして道眞公は、自分でも気づかないうちに、政治の争いの中に巻き込まれていきます。遠く九州の大宰府に流されていった道眞公は、自分の人生をなげき、一人さびしくなくなりました。
ところが、道眞公の死後、都では不幸な出来事が相次いで起こりました。その決定的な出来事は、延喜23年(923)、皇太子
この時、道眞排斥の首謀者と目された藤原時平も、すでに延喜9年に死亡しており、延長3年(925)には次の皇太子慶頼王も年若くしてお亡くなりになり、さらに延長8年の宮中落雷事件もあって、醍醐天皇は身も心も大変お弱くなってしまいました。人々は、それは道眞公の怨霊のしわざだといって、道眞公の霊をしずめるため、神としておまつりするようになりました。これが天神信仰のはじまりです。
(参考文献 『人物 日本の歴史⑨』国際情報社発行 『神道辞典』弘文堂発行)
※このように、その頃社会では、怨霊というものが大変におそれられていました。今の世の中からはとても理解できないことですが、当時はそうした考えによって政治や社会が動いていたということを忘れてはなりません。
飛び梅
東風吹かば
匂いおこせよ梅の花
主なしとて春な忘れそ
菅原道眞公が、九州の太宰府へ左遷された時、京の紅梅園の梅に語りかけた歌で、道眞公は梅の花をこよなく愛しておられました。梅は道眞公との別れに耐えられず、そのあとを追い、一夜のうちに太宰府まで飛んだと言います。
この梅は「飛び梅」と呼ばれ、 現在は太宰府天満宮の境内の社殿両脇にあり、毎年1、2月頃には参拝者の心をなごませています。
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