三浦半島唯一学問の神 久里浜天神社
三浦半島唯一学問の神 久里浜天神社
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天神社由来
天神社【てんじんじゃ】

久里浜天神社【くりはまてんじんしゃ】

〒239-0831 横須賀市久里浜 5-19-3 鎮座

  • 祭 神
  • 菅原道眞公 【すがわらのみちざねこう】
    天照皇大神 【あまてらすおおみかみ】(相殿)
    素盞鳴命 【すさのおのみこと】(相殿)

  • 境内社
  • 祖霊社・稲荷社

  • 例 祭


  • 八月十日直前の土・日
     土曜日 例祭・湯立神楽
     日曜日 神輿渡御

  • 御神徳
  • 学業成就・技芸上達・諸願成就



当社は、三浦半島に鎮座する88社の神社のうち、唯一学芸の神、菅原道眞公を主祭神としてお祀りする神社です。 この地は古くは入海【いりうみ】で葦原【あしはら】でした。 久里浜中央部を流れる 内川【うちかわ】 (今の平作川【ひらさくがわ】) 流域一帯に新田開発をするべく、江戸初期に 越前国【えちぜんのくに】 鯖江【さばえ】 出身で大阪にて身を立てた 砂村新左衛門【すなむらしんざえもん(慶長6年辛丑かのとうし・1601年生誕~寛文7年丁未ひのとひつじ・1667年12月15日満66歳没) が、幕府の許しを得て開拓することになりました。新左衛門は、以前から崇敬していた 摂津国【せっつのくに】 西成郡上福島村天満宮(現在の大阪市福島区鎮座福島天満宮)の 御祭神【ごさいじん】・ 菅原道眞【すがわらのみちざね】の 御分霊【ごぶんれい】を 万治【まんじ】 3年(1660)6月に久里浜村八幡(現在の天神屋敷)に 勧請【かんじょう】 し、新田鎮護の神社としてお祀りしたのが当社の創建です。

社殿の造営は、 安永【あんえい】 8年(1779)10 月と明治 26 年9月と記録があり、平成 13 年8月には、菅原道真公千百年式年大祭記念・砂村新左衛門生誕 400 年記念を祝い、新たに本殿・拝殿・手水舎を造営。平成 15 年には境内に牛乗り天神像が建立され現在に至っております。

御参拝の方から「横須賀の天神さん」、「久里浜の天神さん」、「内川の天神さん」と呼ばれ、お宮参り、七五三詣、受験生の合格祈願、近年は高齢になっても頭脳が曇らぬ様にと御参拝される方が多く、特に秋コスモスが咲き出す頃より、春、新緑の頃まで、遠近各地よりの参詣者で社頭が賑います。 
天神さまと内川新田
・お告げを授けた知恵の神

砂村新左衛門は新田開発の要となる 大〆切水門【おおしめきりすいもん】 の工事に着手しますが、工事は難航していました。そんな 或夜【あるよ】、 新左衛門の 枕辺【まくらべ】 に菅原道眞公と上福島天満宮の 相殿【あいどの】 に祀られる 天照皇大神【あまてらすおおみかみ】 が現れ、夢の中でお告げがあり、新左衛門は苦労してついに水門を完成させる事が出来ました。新左衛門は 霊夢【れいむ】 に深く感謝し、新たに上福島天満宮より天照皇大神の御分霊を 寛文【かんぶん】 5年(1665)9月、村の東端、水門に近い字 <明浜【あけはま】 に勧請し、寛文7年(1667)には、 御神号【ごしんごう】 を 水神社【すいじんしゃ】 としました。これにより村の東方に水神社、西方に天神社の両社が鎮座し、新田の形態と人心が整うことになりました。(後に水神社は明治 41 年9月7日天神社に 合祀【ごうし】 されます。)

・内川砂村新田の完成

砂村新左衛門は、寛文7年3月に至る間、8年をかけて石高 360 石余の新しい村、「 内川砂村新田【うちかわすなむらしんでん】」を完成させ、その後も村人たちは努力し、 延宝【えんぽう】 7年(1679)には石高 542 石余、 文化【ぶんか】 11 年(1814)には石高 585 石余と発展を遂げて三浦半島で最大の新田となりました。
当時開発された内川新田は、現在地名として残っている地域より広範囲で、地理的には、久里浜四・五丁目の商店街、六丁目の学校群、各企業研究施設一帯、舟倉町及び久里浜工業団地の全域と広範囲で、久里浜地区繁栄の基盤となっています。
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