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第四話
其の②学者の家【中編】
阿呼(後の道眞公)の母は、よく阿呼に菅原の家の話をしてあげたのでした。菅原と名乗るようになった理由と、ご先祖様のお話の続きです。それは、これまで土師氏の代々住んでいた土地の名前が菅原だったからです。
垂仁天皇の御陵(ごりょう・・・天皇・皇后・皇太后・太皇太后の墓。みささぎ。)を
くわしくいえば、今の奈良県
これからは、土師古人ではなくて、菅原古人といいました。古人の学問はぐんぐんすすんで、文章博士になり、皇太子様にご講義申し上げるという、名誉なお役を仰せつかり、とうとう今の大学総長にもあたる程の、
この人は、偉い学者になるだけに、非常に学問熱心で、家のことなどはすこしもかまわない。そこで、家は全く貧乏でした。男の子が四人ありましたが、古人のなくなったのちは、この四人の子供達は、着物や食物にも困るという有様でした。朝廷ではこれをお聞きになって、四人の者に衣服・学費を賜り、父のあとをついで学問をはげむようにとの、ありがたい御言葉をいただきました。
朝廷から、こんなにしていただいて、古人の子供達四人が熱心に勉強したことは、いうまでもありません。みなそれぞれ立派な人になりましたが、中にもすぐれた大学者が出ました。その人の名は
清公は若い時分、唐にわたりました。それは桓武天皇の延暦二十三年(804)のことです。清公はその時は、遣唐使の判官という役でした。同じ舟に空海や最澄も乗っていました。遣唐船に乗って唐に行くということは、学問にこころざす青年の皆がもつあこがれでした。清公は、どんなに得意だったかしれません。
唐の長安京は日本で考えていたより幾倍か大きくて美しかったし、唐の人々は、誰も彼も学問があるようにみえました。唐の人に負けてはならぬ、日本を唐に負けぬ立派な国にしなければならぬ、それには何よりも勉強が第一だ、学問だ、と考えた清公は、長安の町を見物してまわるよりも、書物をさがすことに熱心でした。
清公が唐から帰って来ると、菅原の家には急に書物がふえました。唐から帰って来たのちの清公は、それまでにもまして勉強しましたから、つぎつぎと重く用いられて、ついには文章博士・大学頭となりました。
菅原の家には、古人・清公と二代つづいて大学者が出たわけです。
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