第五話
其の②学者の家【中編】
阿呼の母のお話のつづき。阿呼のご先祖さまには大へん立派な学者が二人もいらっしゃいました。そして母も・・・・・
その間に清公は、
文章院
というのを建てました。これは、菅原氏の親類の者で、大学に通っている者を泊まらせて、しっかり勉強させようという、寄宿舎と学校をかねたようなものです。
文章院が出来る前から、藤原氏の建てた
勧学院
、
和気
氏の
弘文院
といういうのがあって、そこにはたくさんの学生が寝起きして学問にはげみ、試験を受けて、どんどん役人になっていました。自分らの親類の者が、たくさん役人になるとういうことは、その氏の
栄
ですし、勢いのよくなることですから、あの氏もこの氏も、何々院というのを建てて、学生をはげましたのです。
菅原氏も、ほかの氏に負けてはならぬというので、清公が、文章院を建てたわけです。清公は大学頭・文章博士ですから、大学総長兼大学教授というわけで、誰も知らぬものもない大学者、その上、いまは文章院で、学生達の親であり先生だというのですから、大したものです。朝廷でも非常に重んぜられて、天皇への御講義を、清公におおせつけられました。
いつも天皇のおそば近くにお仕えして、御講義申し上げる役を
持読
といいましたが、清公はその持読を命ぜられ、
嵯峨
・
淳和
・
仁明
の御三代つづけて御講義申し上げました。そのくらいですから、学問に関することなら、たいていのことに、清公の知らぬということはありません。
たとえば、淳和天皇の御代、『
令義解
』といって、
令
すなわち政治についての規則を説明した書物を、朝廷でお作りになりましたが、清公もその一人に加わりましたし、また、清公は漢詩が特に上手でしたから、詩集を朝廷で作られる時にも、清公は、きっと詩を選ぶ役をおおせつかるのでした。
嵯峨天皇の御代の『
凌雲集
』『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』、淳和天皇の御代の『経国集(けいこくしゅう)』、この三つは、なにぶん天皇の御命令による、すなわち勅撰(ちょくせん・・・天皇の勅命、あるいは上皇・法皇の命により、院庁の役人の出す公文書によって、歌集などを編さん(=編集)すること。)の詩集でありますし、国史の上で、漢詩文の最も盛んな時代の詩を集めたものですから、まことに立派な詩集ですが、それが出来るについて清公は、大へん功労があったのであります。
阿呼のお祖父さんは、こんな大学者だったのです。
お母さんは、よくこの話を阿呼にして聞かせました。
曾祖父
さん・お祖父さんとつづけての大学者、阿呼のお父さんの是善も文章博士、菅原の家は学者の家です。それに、阿呼のお母さんの生まれた家というのが
伴氏
でした。伴氏というのは、大伴氏というのと同じことです。
大伴氏といえば、
物部氏
と並んで大伴・物部と人にいわれ、我が国の国のはじめこのかた、武将の家として知られた家柄、この家には大伴家持という歌人も出ましたし、あの「海ゆかば水(み)づくかばね・・・」という歌は、大伴氏の人々の代々語りつづけ、うたいつづけた歌だということです。この大伴氏を、その頃は伴氏といっていました。
ですから、阿呼のお母さんの家も大へん立派な家柄だったのです。阿呼はお母さんから、こうしたお話をいろいろ聞くたびに、自分も学問にはげんで、祖先の名をけがさぬよう、立派な人にならねばならぬと決心するのした。