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第二十三話
その⑪阿衡の儀【前篇】
道眞が讃岐におもむいたあくる年、すなわち仁和三年(887)には、都では光孝天皇が崩御遊ばされて、新しい天皇のご即位がありました。新しく天皇になられたのは、宇多天皇であらせられます。
宇多天皇は光孝天皇の第七番目の皇子様であらせられ、
親王が、皇太子と定められ給うた時、光孝天皇は、親王と基経とを御側近くにお招きになり、右の御手に親王の御手を、左の御手に基経の手をとり給い、基経には、
「皇太子のことをよろしく頼む」
と仰せられ、
「基経に、よくたすけてもらうように。」
と仰せられました。
かような次第でしたから、やがて天皇とならせ給うた後も、宇多天皇は、基経を非常に重んぜられ、ご即位遊ばされるや、直ちに関白に任ぜらるることとなりました。
関白というのは、政治上の一切の事柄を天皇に申し上げるに先立ち、一応眼を通すという重い役で、これまでも、基経は光孝天皇の仰せをこうむって、こういったことを実際とり行ってきたのですが、まだ「関白」という名前はありませんでした。
ところが、宇多天皇は、そのご即位遊ばされた仁和3年11月17日から、やっと4日たった21日、基経に対して前と同じように、このお役目を仰せ付けるとの、ありがたい詔(みことのり)をお下しになり、その詔の中で、「関白」という御言葉をお用いになりました。
ですから、この時の
そこで、基経もこの風習に従って、まず第一回のご辞退を申し上げました。
「私は、到底さような重いお役を仰せつかる資格はございませんから、ご辞退申し上げます。」
という意味を記して、天皇の
「
との御言葉さえ見えました。これは、
「お前は国家の臣であって、私個人の臣下ではない。だから、是非関白の職につくように。」
との、まことにもったいない御心を、おあらわしになった御言葉なのです。
ところが、この勅書が下されると、すぐ文章博士の藤原
「あなたの賜った勅書の中に、『阿衡の任』という御言葉があるそうですが、あれをうっかり見過ごしてはいけません。阿衡というのは名誉なだけで、実際の政治にあづかる官職ではございません。ですからあなたはもはや免職されたも同じことです。」
こういわれると基経は気にかかりだしました。
ところで、この阿衡というのは、支那の大昔、
では、この何でもないことを、なぜ
それは、この勅書の文を作った
やがて、この皇子の中から天皇の御位につかせられる御方がお出になろうものなら、
それでなくても、学者仲間には、人をねたんだり、悪くいったりする者が多いのです。
いつか折があったら、
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