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第二十一話
その⑩讃岐に赴く【前篇】
毎年の例に従い、光孝天皇の仁和二年(886)正月にも、地方官の任命が行われました。転任になった人、新しく任ぜられた人の多い中に、菅原道眞の名も見出されました。
道眞が、
菅原家は代々学者の家だから、都にいるのが当然だと考えられていた、その菅原家の道眞が文章博士・
人々は自分の耳を疑ったほどでした。
「ひどいことをなさるものだ。」
「一体、誰のはからいだろう。」
と憤慨し、道眞に同情する者が多かったが、どうにもなりません。この頃の藤原氏の勝手さ加減から見れば、このくらいのことはあたりまえでしょう。
摂政良房も威勢がよかったが、良房のあとをついだ基経に至っては、わがまま勝手のしほうだいです。
元慶八年(884)、陽成天皇が御位を退かれて、光孝天皇のご即位となったのも、基経のはからいだと噂されていました。
そのくらいですから、この頃は全く藤原氏の都合次第、基経の思いのままに万事をとりはからっています。
道眞のことも、今の時勢ではいたし方がありません。誰が道眞をにくむ者が、基経に申して、こんなことをしたに違いない。と思うものもありましたが、口に出しては、それこそどんなことになるかわからないので、ただヒソヒソとささやき合うのみでした。
世間の人達が、道眞に同情した理由は、まだあります。
それは、都の人達の田舎嫌いです。
花の都に住むことは、誰しも望むところですが、特にこの頃の人々は、都を離れることを嫌いました。
地方に行くと、学問のわかる人や、詩の作れる人はほとんどいない。詩を作って見せ合ったり、学問上の話をしたりする人がないとすれば、何とさびしいことだろう。それに地方の人達は言葉はいやしいし、礼儀をもわきまえない。眼をたのしませ、心を慰めてくれるものもない。そんな所には、一日だって住めない。地方に行かねばならぬくらいなら、死んだ方がましだ。
ーーー都の人々はこんな風に考えていたからです。
まして、道眞の家は、代々文章博士となって学問を講じ、天皇の御側近くに参じて、御講義も申し上げようという名誉の家です。
こうした家のあるじとして、日本一の学者として、上下に尊敬されている道眞が、遠く海を渡って四国に行かねばならぬなどとは、誰一人夢にも思わぬことでした。
「お気の毒なことだ。」
と人々の語り合うのももっともです。
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