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第四十五話
その⑳
禍
きたる【後編】
たくらみは人知れず進められ、正月二十五日になると、その日、宮中は
その中を天皇は紫宸殿(ししんでん・・・平安京の内裏(皇居)の正殿で,即位などの重要行事が行われる)に出御遊ばされ、
それは、大体、次のようなことでした。
「右大臣菅原道眞は、いやしい家より出て大臣にまで昇り、身の程も知らず権力を振るい、たくみなことばで、法皇をあざむき奉り、ついには、
これは、法皇と朕との父子の仲をさき、朕と斎世親王との仲をわるくしようとするものである。道眞のいうことは立派なように聞こえるが、実は中々悪賢い。
道眞がかような野心をいだいているということは、天下の人々の知っていることで、到底大臣の位におくことはできない。そこで道眞を右大臣の官よりおとし、
菅公は詔を承って、打ちのめされたように感じました。
一緒に承った人達も、もちろん、驚き入りました。
菅公がおとされた太宰権師というのは、一体どんな官でしょう。
それがわかるためには、大宰府という役所のことを知っていなければなりません。
大宰府というのは、九国二島、すなわち九州全部と壱岐・対馬とを管轄し、兼ねて支那・朝鮮その他の外国との交際のことをつかさどる、いわば国防と外交のことにあたる役所で、今の福岡県の大宰府の地に置かれていました。
この役所には、
帥が大宰府の長官です。 帥になるのは大抵は親王ですし、帥に次ぐものに、なお
しかし、菅公は右大臣です。
それが都離れた九州の大宰府に行き権帥になるというのです。
それだけでも気の毒に思われますが、菅公の任ぜられた権帥というのは、実は
右大臣の高きよりおとされて、筑紫へと流される。
花の都をあとに、草深い九州へ。
ーーー何という大した変わり方でしょう。いつかは災難にあうかも知れぬと、うすうす思わぬでもありませんでしたが、まさか、こんなに早く、こんなひどい目にあおうとは、さすがの菅公も思いも及びませんでした。
あまりの変わり方に、菅公はただぼんやりとするばかりでした。
それから2日たった27日には、一層菅公を悲しませることが起こりました。
それは
菅公の長男、
ほかに、
従五位
正六位下
それぞれ流されると決まったことでした。
こうして父子五人の者が、別れ別れになることになったのです。
後に菅公は、この時のことを詩に作りました。それには、
「父子五人が、一度に五箇所に離れ離れになる。このくやしさといったら、とても口に出していいあらわすことは出来ず、その思いは眼にあふれて、眼は血走っている。ああ、ただ天を仰ぎ地に伏して、天地の神に祈るばかりである。」
菅家の人々を、これほどの悲しみにたたきこんでおいて、にくにくしいことに、時平らは
「朝廷の官職は一日も欠き得ない」
といって、源光(みなもとのひかる)を右大臣に、定国(さだくに)を右大将に、菅根(すがね)を蔵人頭(くろうどのとう)という風に、一味徒党の者どもを任じていただきました。
時平のにくいのは、それだけでありませんでした。
たくさんの人々を、菅公の仲間だといって流したのです。
源
という具合でした。
時平は、それでもまだ足りないといって、朝廷に仕えている者で、もと菅家の門人だったものは、すべて朝廷から追い払おうとしましたが、しかし、それはあまりひど過ぎると、清行がいさめましたので、これだけは思いとどまることにしました。
続く
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