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第十八話
その⑧文章博士【後篇】
学者仲間には、特にそれがひどいようです。
同門相たすけ、異門相しりぞく
といいました。同じ先生についた者達は、互いにたすけあって出世しようとはかるが、師匠の違う人をば、どうも排斥(はいせき)するという風があるというのです。
また、三善清行が、
「古より不才の博士なし。そのこれある
という類で、一口にいえば、お前のようなつまらぬ博士は始めてだ、というのです。これでは、学問上の批評とは申せません。全く口ぎたないののしりようですし、他人をおとしいれようとするいやしい心境が見えすいています。
こうしたことを考えてみれば、父の言葉は、如何にももっともな注意だと思われました。道眞は、今までより一層慎み深くし、人にうしろ指をさされることのないようにと、学問に精を出しました。
それでも口さがない人達は、道眞の大学での講義ぶりや、作った文章について、あれこれと陰口をききました。時には、道眞の耳にもそれがはいります。一度二度は聞き流しもしましたが、度重なれば、やはり嫌な気がします。道眞はつくづく、博士たることのをむづかしさを思いました。そしてこれを詩に作りました。『
その中で道眞は
南面わずかに三日、耳に
といいました。講義を始めてやっと三日で、もはや悪口が聞こえるというのです。しかしそれも、まだ父の生きている間は、ほんの陰口程度でしたが、父をうしなって後は、随分ひどくなりました。
元慶六年の夏、藤原
「道眞でなければ、こんなうまい文は作れないから、道眞に違いない。」
というのです。もちろん、それは真赤ないつわりで、道眞をおとしいれようとするも者の、たくらんでいったことでした。道眞は困ってしまいましたが、ただじっと我慢していました。
島田忠臣だけは、道眞のこの苦しい心のうちに同情してなぐさめの詩を送ってくれました。道眞はそれをうれしく思い、少しは気が軽くなりました。
こんな時思い出されるのは、父のことでした。父の是善は、その前年(元慶五年)69歳でなくなっていました。是善は文章博士・
それでいて、また、非常に信仰心の厚い人でしたから、道眞が、母のために観音像を作ったと聞いた時も、そのよろこびかたは並大抵ではありませんでした。
なくなる時もほかに遺言はなく、ただ、
「毎年十月の菅原家の法事のことを、忘れるな。」
といったのみでした。
学問があり、信仰も厚かったから、是善は、何事にも物わかりがよく、心に落ちつきのある人でした。道眞は、今は立派な学者なのですが、苦しいことにあうと、やはり父のことを思い起こすのでした。
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