ホーム > 天神様菅原道真公のお話 > その⑱右大臣に昇る【前篇】
第四〇話
その⑱右大臣に昇る【前篇】
太政大臣藤原基経(だじょうだいじんふじわらもとつね)のなくなったのは、寛平三年(891)のことでありました。この時の左大臣は源融(みなもとのとおる)、右大臣は藤原
二人の中のどちらかが、基経のなくなったあとをついで、太政大臣になるかと思いましたが、どちらも任ぜられません。もちろん、ほかの人はなりませんでした。
そこで、基経がなくなると、左大臣の
ところが、その
しかし、源光というのは、家柄がよいから、これまで進んだというだけの人でしたから、主に醍醐天皇をお助け申し上げるのは、実は時平と道眞とのただの二人だけでした。
そんなわけでしたから、昌泰二年(899)になると、この二人が並んで大臣に進み、時平が左大臣に、道眞が右大臣に任ぜられました。
公卿になったのでさえ、珍しいことだと驚いたのに、今や道眞は、右大臣という高い官にまでも、昇ることになりました。
太政大臣・左大臣・右大臣を三公と申しました。道眞のことを菅原道眞公、または
参議になった時でさえ、世間の嵐は菅公にひどくあたりました。それが、更に伸びて、今は右大臣という高い木になったのですから、風当たりは一層強くなりました。
世間の人達は、大臣になるのは、藤原氏とか、源氏とか、家柄のよい家に生まれた者だけだと考えています。そこで菅公が右大臣になったということを聞いて、ただもう驚くばかりでした。
「学者のくせに、右大臣にしていただくなんて生意気だ。」
というかと思うと、
「一体、学者の家に生まれた者で、大臣にまでも昇った者があるかしら。」
「いや、無いことはない。今から百二十年ばかりも前に、
「そうかね、でも吉備公はお偉かったからね。とても道眞などの、及ぶお方でないよ。」
と言い合う者もあります。
吉備公と菅公のどちらが偉いか、本当に菅公は吉備公に及ばないのか、そんなことはよくは知らなくても、菅公を何とかして悪くいわねば、気がすまないのです。
ただ陰口をきくぐらいは、仕方がありませんが、菅公の身近に、まだまだ、ひどく悪く思うものが沢山いました。
まず、源
それも、初めから菅公が上で、光は後からついてゆくというのならまだしも、菅公が参議になった時、ーーー初めて公卿の仲間入りをした時は、光はすでに中納言で、公卿では上から四番目、菅公など遥か下に見下ろしていたのに、五、六年のうちに追い越されてしまったというのですから、光にしてみればたまりません。
大納言
光や高藤のように、菅公の下にすわるわけではなかったが、菅公のことが気になってたまらないのは時平でした。
ホーム > その⑱右大臣に昇る【前篇】